バフェット太郎です。

1978年、ウォーレン・バフェットは投資におけるひとつの結論に至りました。それは、「そこそこの事業を素晴らしい値段で買うよりも、素晴らしい事業をそこそこの値段で買う方がずっといい」というものです。しかし、それにも関わらずバフェットはベンジャミン・グレアム流のシケモク投資からなかなか卒業出来ずにいました。

シケモク投資とは、ホームレスが道端に捨てられたタバコの吸い殻を見つけて最後のひと吹かしをする様子から名づけられました。具体的に言えば、PBR(一株当たりの純資産)0.6倍の銘柄に投資し、1倍に戻るのを待ってから売るという投資スタイルです。

バフェットはグレアムの影響を強く受けて、割安株へ投資することで驚異のリターンを上げてきました。しかし、常に正しい判断ができるわけではないということに気づき、78年に「素晴らしい事業をそこそこの値段で買う方がいい」という結論に至ったわけです。

皮肉なことにその「気づき」を「確信」に変えたのがバークシャー・ハザウェイそのものへの投資でした。

元々バークシャーハザウェイはバークシャー・コットン・マニュファクチャリングとして1889年に設立されました。その後、紡績会社数社と合併して全米の綿の25%を生産するなどニューイングランドの大企業にまで成長しました。そして1955年、ハサウェイ・マニュファクチャリングと合併してバークシャー・ハザウェイと社名変更されました。

しかし、合併後のバークシャーは業績が低迷し、純資産を切り売りすることで特別利益を計上しEPS(一株当たりの利益)を高めていました。当然同時にBPSは減少するわけですから、合併して10年もするころには純資産が半分になっていたのです。

純資産を切り売りして利益を得るところにシケモク投資の「最後のひと吹かし」があったわけですが、結局繊維事業そのものを再建するには至らず、繊維事業としてのバークシャー・ハザウェイは1985年、96年の長い歴史に幕を閉じました。

繊維事業の再建が難しかった主な要因は、同社の製品がコモディティ(汎用品)だったことから、他社との差別化が難しく、安い労働力を持つ海外の競合他社にシェアを奪われたためです。

こうした経験を経て、バフェットはグレアム流の投資手法と完全に決別し、上昇相場も重なっていたことから次々に手持ちの株を売却し、1987年にはついに三銘柄まで絞られました。(ちなみに1987年はブラックマンデーの年だったので、バフェットの読みは素晴らしかったです)

【1987年:バークシャーハザウェイのポートフォリオ】
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この時代、バフェットが集中投資していたのはキャピタルシティーズ/ABCで、テレビ局とラジオ局を有する大手メディア企業です。(後にディズニーの傘下に入る)

バフェットのキャピタルシティーズ/ABCへの投資は半ば偶然によるところが大きいです。1985年、キャピタルシティーズとABCはそれぞれ別々の企業でした。キャピタルシティーズがABCに対して合併を打診し、後継者に悩んでいたABCはこれを受けました。

ABCは交渉の場に投資銀行を連れてきた一方、キャピタルシティーズは信頼する友人の一人を連れて行きました。それがウォーレン・バフェットです。

キャピタルシティーズのABC買収には総額35億ドルにも上ったため、手持ちの資金では買収は不可能でした。そこで21億ドルを銀行から借り入れし、残りの14億ドルのうち9億ドルを、テレビ局とラジオ局、ケーブルテレビなどをワシントン・ポストに売却することで調達しました。そして残りの5億ドルをバフェットが投資するという形で調達したわけです。

バフェットがキャピタルシティーズ/ABC株を取得してから株価はすぐに値上がりし、1987年には二倍になりました。そのためキャピタルシティーズ/ABC株がポートフォリオの半分を占めるまでに拡大したというわけで、値上がりしていなければガイコ株がポートフォリオの約半分を占めていました。

いずれにせよ、バフェットはこの頃から「そこそこの事業を素晴らしい値段で買うより、素晴らしい事業をそこそこの値段で買うほうがずっといい」との言葉通り、投資スタイルを大きく転換していきます。

グッドラック。

(参考文献:『バフェット・コード 』『株で富を築くバフェットの法則[最新版] 』)

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